GENIUS 2 Lesson 9 Micheal J.Sandel on Kant: Freedom and Morality

Lesson 9
Michael J. Sandel on Kant: Freedom and Morality

Part 1 本文和訳

われわれはよく「自由」という言葉を口にするが,自由とは何であるのか,じっくり考えてみることは滅多にない。考えるときがあっても,自由とは,自分の好きなことをやるのに障害物が無い状態という風に考える傾向がある。

カントの考えは違う。彼はもっと厳しい,厳格な自由の概念を持っている。カントは次のように考える──われわれが動物と同じように快楽や苦痛の回避を求めるとき,われわれは本当は自由な行動を取っているのではない。われわれの食欲や欲望の奴隷として行動しているだけである。どうしてであるか? 自分の欲望を満たそうとしているときは常に,われわれのしていることは,例外なく,外部から与えられた目的を果たさんがためであるからだ。わたしは飢えを和らげるためにこうする,喉の渇きを癒やすためにああする,と。

例えば,注文するアイスクリームの味を決めるときのことを考えてみよう。チョコレート味にするか,ヴァニラ味にするか,エスプレッソ・タフィー・クランチ味にするか? そのときわたしは選択の自由を行使しているつもりになるかもしれないが,わたしが真にやっていることは,わたしの好みを──そもそも自分で選んだものでもない好みを,いちばん満たしてくれるのはどれであろうかと考えているにすぎない。カントは,自分の好みを満たすことが悪いとは言っていない。彼の言わんとすることは,それをやるときのわれわれは自由な行動を行っているのではなく,外部から与えられる決定に従って行動している

ということである。詮ずるところ,われわれはヴァニラに対する欲望よりもエスプレッソ・タフィー・クランチに対する欲望を選んだのではない。ただその欲望を持っていたにすぎない。

カントによると,自由に行動するとは,自律的に行動することである。そして自律的に行動するとは,自分が自分に与える法則に従って行動することである──自然な,あるいは社会的な慣習の命ずるところに従うのではなく。

Part 2 本文和訳

カントの「自律的行動」とはいかなる意味であるか,それを理解する1つの方法は,自律をその反対語と比較してみることである。この比較を明確にせんがため,カントは「他律」という言葉を創り出している。わたしが他律的に行動するとき,わたしはわたしの外部から与えられる決定に従って行動していることになる。例を挙げて説明すると,ビリヤードの球を落とせば,球は地面に落ちる。落ちるとき,球は自由に行動してはいない。その動きは,自然の法則──この場合は重力の法則に,支配されている。

わたしがどこか高いところから誤って落ちたとしよう。地面にむかって落下しているわたしを,自由に行動しているなどと言う人はいまい。わたしの動きは,ビリヤードのボールと同じく,重力の法則によって支配されているからだ。
それで,わたしが何かの上に落ちて,それを壊してしまったとしよう。この不幸な被害に対しわたしが道義的な責任を問われることがないのは,もしビリヤードのボールが高いところから落ちて,誰かの頭に当たってしまった場合に球に責任がないのと同様であろう。

どちらの場合も,落下する物体は──わたしにせよ,ビリヤードのボールにせよ,自由な行動を取ったりはしていない。両者の場合,落下する物体は重力の法則によって支配されている。自律性がない以上,道義的な責任はありえないのである。

そうすると,ここに自律性としての自由と,カントの道徳性との関連が浮かんでくる。自由に行動するとは,所与の目的に対する最良の方法を選ぶことにはならない。それは,目的自体のために,目的そのものを選び取ることだ──この選択は人間のみが行うことのできる,そしてビリヤードのボール(や大部分の動物)が行うことのできないものである。

Part 3 本文和訳

どうしてそんなに一生懸命に勉強するのかと訊かれると,学生の中には,「いい大学に入るため」と答えるものがいる。どうしていい大学に入りたいのかと訊かれると,「いい会社に入りたい」と答える。どうしていい会社に入りたいのかと訊かれると,「お金を儲けるため」と答える。

これがカントなら他律的決定素とでも呼ぶであろうものの1つの例である──何かを何かそれ以外のもののためにやるということ。その際われわれは,外部から与えられた目的のために行動している。われわれは自分の追い求める目的の道具となっているのであって,その考案者ではない。

カントの自律性の概念は,これとは対極にある。われわれが自分に課す法則に従って自律的に行動するとき,われわれはその何かをそれ自身のために,それ自体を目的として,行動している。外部から与えられた目的のための道具とはなっていないはずだ。

それ自体で目的であるということは,行動に道徳的な価値を与えてくれる。というのも,カントによると,ある行動の道徳的な価値は,そこから生ずる結果にあるのではなく,行動をなすときの動機にあるからである。重要なのは動機であり,そしてその動機はある一定の種類のものでなくてはならない。大切なのは,正しいことを,何か別の動機からではなく,それが正しいことだからという理由で行うことだ。

すべての行動が道徳的に善きものとなるためには,その行動が道徳的な法則にかなうというだけでは十分ではなく──それはまた,道徳的な法則のためにも行われるものでなくてはならない。そして,行動に道徳的な価値を与えるのは,義務という動機である。

Part 4 本文和訳

義務という動機から何かを行うことは,言い換えると,正しいことを正しい理由から行うことである。義務以外の動機,例えば私欲から行動を起こす場合,その行動には道徳的な価値はない。このことは私欲だけにとどまらず,自分個人の願望,欲望,好み,欲求などを満たそうとするありとあらゆる行動についても当てはまると,カントは言う。こういう動機をカントは「傾向性の動機」と呼んで,義務の動機と対比させている。そして,義務の動機から行われる行動だけが道徳的な価値があると主張する。

カントは,義務と傾向性の違いを明らかにしてくれる例を挙げている。ある用心深い商店主の例である。買い物に不慣れな,例えば子どもの客が,食料品店にパンを1個買いに来たとする。店主がパン1個の値段を吹っかけ──正規の値段よりも高い値を請求したところで,子どもには分からないことだろう。しかし,もしこういう風にして子どもをだましたということが他人にばれたら,噂が広まって,商売に影響が出てしまうだろうと,店主は気づく。

その理由から,店主は子どもに高く売りつけることはやるまいと決意し,通常の値段を請求する。それで店主は正しいことをしたことにはなるが,しかし理由が正しくない。店主が子どもをだまさないことにした唯一の理由は,自分の評判を守ることでしかない。店主が正しい行動を取ったのは私欲のためだけであり,この行動に道徳的な価値はない。

結論を述べると,傾向性を離れた行動を取ろうとするときにのみ人は自由な,あるいは道徳的な生き方ができると,カントは主張するのである。