GENIUS 2 Lesson 7 Paul Klee: A Musical Painter

Lesson 7 Paul Klee: A Musical Painter

Part 1 本文和訳

1914 年の4月 16 日,チュニジアでの短期滞在の間,パウル・クレーは日記にこう記している──「色彩がわたしを捉えている…この幸福な瞬間の意味が分かった,色彩とわたしとが一つになったのだ。わたしは画家になれた。」真の画家になることができたと,こうやって胸たぎらせて宣言したとき,彼はすでに 34 歳であった。

「赤と白のドーム」(図1)は,クレーのチュニジア滞在の直接の成果である。ドームそれ自体のアウトラインと,窓と思われるたくさんの小さな長方形とが,昼の暑さが薄れゆく北アフリカの町のさまを巧みに描き出している。「わたしの頭は,昨夜の散歩の印象でいっぱいである」と,チュニジアに到着した翌日,クレーは書いている。「すぐにアラブ人地区に絵を描きに出かけ,水彩画を描いた。」そして,「鮮明であると同時にやさしい色彩の溢れる夕べ。」

この水彩画は,クレーの絵画に対する考えがすでに本質的に現代のものであることを,はっきりと示している。19 世紀に北アフリカを訪れたたくさんのヨーロッパの画家たちは,キャンバスにその土地の物語を,つまりは,その地の荒々しくもロマンチックな生活を,描こうとした。ところがクレーはすでに,絵画は絵の具から造られるのであって,物語からではないことを,そして画家と色との関係は音楽家と音との関係と同じであることを認識していた。北アフリカで見つけた色と線とに感応して,クレーはさまざまな印象に溢れた自分の頭をこの絵へと効果的にまとめ上げたのだった。

Part 2 本文和訳

パウル・クレーは 1879 年 12 月 18 日,スイスのベルン近郊に,生まれも国籍もドイツ人の音楽教師ハンス・クレーの息子として誕生した。パウルの母親も音楽家の教育を受けていた。子どもの頃にクレーはプロ顔負けにヴァイオリンを弾きこなしていた。後年,1906年にピアニストのリリー・シュトゥンプフと結婚したあとは,音楽の流れる夕べが彼の家庭生活になくてはならない一部となった。描写から独立した視覚芸術の自由を確立せんがためには,音楽との類似は大切なものであり,クレーはこの類似を理解するにうってつけの人物であった。

クレーは 1898 年にベルンの高校を卒業した。高校時代は,音楽と絵画のどちらを職業として選ぶか決めかねていたが,卒業の頃には気持ちが固まってきた。かくて,野心家の若き地方出身者の画家がすべて迫られる決断が生じてくることになる──どこで絵の勉強をするか? 彼はミュンヘンを選んだ。「わたしはパリとドイツのどちらにするかを決めねばならなかったが,ドイツに対する気持ちのほうが強かった。そうやってわたしはバイエルン州の州都に出て行った」と彼はのちに書いている。

最初の抽象画家の1人ワシリー・カンディンスキーも,若きクレーのちょうど2年前の1896 年,30 歳のときにロシアからミュンヘンにやって来た。ミュンヘンには,カンディンスキーとその静かな絵画革命を育てる芸術的な環境があった。クレーは彼の描く奇妙な新しい絵に関心を抱き,のちに2人はバウハウス造形学校で何年間も親友かつ同僚として過ごすことになる。

Part 3 本文和訳

クレーは,種々多様な技法を試み,それを完成させた熟練の実験的な職人であった。彼はキャンバスを画布台に載せて使うことはほとんどなく,たまに使うときも,キャンバスを額に入れて飾らず板の上に載せるようにして,絵の端が見えるようにした。彼の線画や水彩画は,タイトルを書けるよう余白を残した大きな紙に描くこともあった。クレーは額のかなたに生活の幻想を与えることを好まなかった。そのために彼の作品は,常に,具体的な質量感のある性質を有している。

「赤い風船」(図2)は油絵であるが,チョークで下塗りし,板の上に固定されたキャラコに描かれている。ほぼすべての箇所において色の平面は線によって区切られており,それがこの絵と「赤と白のドーム」との最大の違いの1つであることは大方の認めるところであろう。

「セネシオ」(図3)は,クレーの最も有名な作品の1つであるが,不注意な人なら“子どもじみた絵”と思いかねない作品である。セネシオとはある属の植物の総称であり,クレーはおそらく月型の顔をした人物とセネシオの丸い花とを較べているのであろう。その後もこういう丸い顔をモチーフとしてしばしば取りあげることになる。自然と幾何学を双子の基本とするクレーにとっては,意味内容と構造の2つが重要であった。抽象画をまじめに考える人は誰しも,いずれは丸形と四角形との関係について思いをいたさざるをえなくなる。「赤い風船」と「セネシオ」には,丸形と四角形にいずれかの雌雄を決する戦いを挑ませるいろんな要素が含まれている。

Part 4 本文和訳

クレーは 1921 年ワイマールのバウハウス総合造形学校に招聘されている。1919 年に創設されたバウハウス校は,普通の意味での芸術学校ではなかった。この学校は,絵画だけでなく工芸や建築などのすべての芸術を統合した,デザインへの新しいアプローチで有名な学校であった。クレーは,一般に意識化されていない芸術の制作過程について説明するのがじつに巧みであることを明らかにしてみせた。すべての芸術家と同じように彼は直感の人であったが,同時に,大部分の芸術家と違って,論理の人でもあった。「絵に起きるすべてのことは,論理的な正当化のできるものでなくてはならない」というのが彼の信条であった。

クレーは,バウハウス校の教職にある間も,そこでの職を辞したあとも,画家として旺盛な活動を行った。「植物の劇場」(図4)はクレーの全作品の中でも最も成熟した作品の1つに数えられるであろう。彼には珍しいことだが,この絵の制作に 10 年の歳月を要している。「森の中に建設予定の城」(図5)は,“模様”でしかないとあまりに安易な批評を受けるかもしれない。確かに反復を使ってはいるが,しかし常に多種多様な細部を忘れることはない──まるで音楽のように。ここでは,音楽との類似がさらに拡大して,音楽の楽譜にまで奇妙に似通ってきている。

「ポリフォニー(多声音楽)」(図6)は,長期にわたる技法的な準備と絵画の音楽的な性質に関する深い思索との成果の1つである。これら数少ない作品からでも,パウル・クレーが常に創造的であり,同じものを繰り返すことは決してなかったことは明らかである。絵画を音楽に近づけることによって,彼は現代絵画の発展に大きな役割を演じている。その姿を見るとき,19 世紀のイギリスの批評家ウォルター・ペイターの言葉を思い出さざるをえない──「すべての芸術は音楽の状態にあこがれる」と。