GENIUS 2 Lesson 4 Ahmed’s Gift of Life

Lesson 4 Ahmed’s Gift of Life

Part 1 本文和訳

12 歳の少年アーメドは,ジェニンにあるパレスチナ難民キャンプに住んでいました。男の子4人,女の子2人の家族の中の,上から3番目の子です。家は美しい地中海からわずか 20 キロのところにありますが,彼はまだ地中海を見たことがありませんでした。海は,彼と家族が辿り着くには遠すぎるところにありました。

というのも,彼らがそこに行くには,機関銃を持ったイスラエルの兵士たちが立っている国境の検問所を通らなくてはいけなかったからです。パレスチナ人とイスラエル人は,境界線,検問所,恐怖,政治家などによって隔てられています。アーメドの夢は,いつの日かジェニンの町の外に出て,大きな広い世界を見ることでした。

イスラエルの国は 1948 年に建国され,世界中に離散していたユダヤ人が祖先の地に戻ってくることができました。しかしながらこのことは,多くのパレスチナ人が家を棄て,難民とならざるをえないことを意味していたのです。それ以来,大なり小なりの戦闘が絶えることがなく,両方の側で多くの人命が失われました。

2002 年,イスラエル軍がジェニンに激しい攻撃を加えて相当な被害を与え,59 名のパレスチナ人の死者を出したとき,9歳のアーメドは,自宅から数ブロックのところにある難民キャンプの中心街が破壊されるのをその目で見ました。

Part 2 本文和訳

2005 年の 11 月,ラマダン明けを祝うイード・アル・フィーターの祭りの初日のことでした。アーメドは,昔からこの日のために買い揃えることになっている新しい服を着て,夜が明けたあと家を出ました。そのとき,イスラエル軍が難民キャンプに入ってきたと叫ぶ声が聞こえました。子供たちが通りにわっと溢れてきます。彼は家を出たときには模造銃を持ってはいませんでしたが,他の子供たちは持っており,子供たちの目がイスラエル軍のジープを捕らえたときには,アーメドも模造銃を手にしていました。「ユダヤ人は彼のことを戦闘員と思ったんだろう,彼を狙って撃ってきたよ。彼が撃たれたとき,ぼくはその隣に,1メートルしか離れていないところに立っていたんだ」と,子供たちの1人はその瞬間と き のことを思い出して語っている。

何人かの少年がアーメドの家に走り,アーメドが頭を撃たれて病院に運ばれたと,両親に告げました。母親は病院に着き,息子をひと目見た瞬間,息子が助からないことを知りました。医師たちは,アーメドが危篤状態にあるとみて,彼をハイファのイスラエルの病院に移すことを決めました。

生まれてはじめてアーメドは国境の検問所を通ることができたのでした。アーメドの父親のイスメイルは息子が助かることをひたすら祈っていましたが,イスラエルの医師たちもアーメドの脳が動いている兆候を見つけることができず,息を引き取るのは時間の問題だとわかりました。医師たちはイスメイルにこう言って難しい決断を迫りました──「残念ですが,息子さんを救う手立てはありません。しかし息子さんの臓器で他の子供たちを救ってやることはできますよ。」

Part 3 本文和訳

イスメイルにとって,自分の息子の臓器を提供することは,簡単には下せない決断でした。おそらく生まれてこれまでの人生の中で行わねばならなかったものの中でも,最も重大で困難な決断だったことでしょう。彼の心は息子を思って泣いていましたが,彼の頭は何か意味のあることをやらねばならないと告げていました。イスメイルが尋ねてみると,奥さんは言いました──「息子は死んじゃったけど,でももしかすると他の人たちに命をあげることができるかもしれないわね。それが誰であるかは,どうでもいいことじゃない。」そのときのことを思い出して,イスメイルは語っています──「わたしがその決断を下したのは,世界にむけて伝えたいメッセージがあったからです。パレスチナ人は平和を──すべての人たちへの平和を,願っているというメッセージです。この紛争でアーメドが,少なくとも子供たちの中では最後の犠牲者であってほしいと,わたしは心から願いました。」

アーメドの臓器はイスラエルの5人の子供たちと 58 歳の女性とに移植されました。アーメドの心臓の提供を受けた少女サーマー・ギャドバンは,彼女が生まれる前に同じような遺伝的な心臓疾患のために亡くなったお兄さんの名前を
もらって名づけられました。

サーマーは臓器の提供者が現れるのを5年間待っていました。手術の前は,身体が衰弱していちどきに数ヤードも歩けなくなったため,学校に行くのも止めていました。もしイスメイルの貴重な決断がなかったならば,サーマーがひとりで学校に行くことは決してなかったことでしょう。サーマーのお父さんはこの臓器移植を「愛の行為」と呼びました。お母さんはこう語っています──「わたしも息子を喪った経験があるので,アーメドのお母さんの気持ちは言葉で言い尽くすことのできないものであることがよく分かります。あの苦しみの中でお2人がわたしたちの苦しみを思ってくださったことに感謝を覚えます。いまのわたしの胸の思いはなかなか言葉では表現できません。お2人の行為は,平和への架け橋です。」

Part 4 本文和訳

イスメイルは 2010 年にインタビューを受け,自分の決断と世界中からの反響について話をしました。

「占領下の生活はとても苦しいものですし,どんな人も,それがいかなるものであるか,なかなか想像できないと思います。その苦しい生活を,パレスチナ人はもう 60 年以上も強いられているのです。この生活を打ち破ろうと,デモを行ったり,壁に落書きをしたり,武器を持ったりと,いろんな方法,いろんなやり方を試してきましたが,……でも依然として占領体制は変わっていません。変化など,どこにもありません。そしてこの状態が,いつまでも,いつまでも……終わりの見えないまま続くのです。

「家族の一員を喪うということはあまりに苦しく,胸の張り裂けるようなことでしたから──その悲しみを言葉で表現したりはできません。息子のアーメドが──永遠にいなくなったのです。どうしてですか? 何のためにですか? 次にいなくなるのは誰ですか?

今回の人生の試練で,わたしの考え方が変わりました。新しい人生観が,以前の人生観とは違う考え方が,わたしの前にひらけたのです。「わたしはイスラエルにむかって,全世界にむかって,新しいメッセージを送ることを考えるようになりました。戦いを止めねばなりません! 戦争はダメです! 同じように子供を喪っているすべてのイスラエル人に,今こそこの争いを終わらせるべき時だということを呼びかけたくおもいます。わたしは戦争のない世の中を願っています。だからわたしは敵に手を伸ばし,仲直りをしたいのです。

「わたしの決断に対する反響は,パレスチナ人もイスラエル人も含め,敵味方の 100 人以上の方たちが,わたしに連絡を取ってきて,平和的な,恒久的な形でこの戦争をついに終わらせる解決策を見つけることに,何らかの働きをしたいということを告げてきてくれました。」