GENIUS 2 Lesson 10 Donald Woods: Real Journalism Takes Courage

Lesson 10 Donald Woods: Real Journalism Takes Courage

Part 1 本文和訳

善いジャーナリズムは一般市民の人生を変えることがある。ジャーナリストにして「デイリー・ディスパッチ」紙の編集長ドナルド・ウッズが,残酷なアパルトヘイトの体制下に生きる無数の南アフリカ人の人生を変えたことには疑いの余地がない。

1948 年以降,南アフリカの国民党政府の発布した法令により,黒人と白人の居住地区は強制的に分離され,異人種間での結婚は禁止されて,黒人の権利は多くの点で制限された。

例えば黒人は,選挙権,移動や政治活動の自由などの権利を奪われた。ウッズは 1933 年,南アフリカのイースト・ロンドンの裕福な家庭に生まれ,アパルトヘイト制度に何の疑問も抱かないまま育った。彼が人種差別と,それに伴う不正に疑問を抱くようになったのは,ケープタウン大学で法律を勉強しているときであった。1950 年代後半以降,彼は南アフリカ内外のさまざまな新聞社で記者あるいは編集者として経験を積み,1965 年には『デイリー・ディスパッチ』紙の編集長となった。

『デイリー・ディスパッチ』紙の編集長として,ウッズは国民党政府の行動と敵対勢力の行動をともに批判的に分析し,自分の個人的な経歴とは無関係に,公平な政治報道を行うことに成功した。他の有力紙が勇気をもって報道することのできない記事を掲げ,必要とあらば政府も反体制側も分け隔てなく批判することにより,彼はニュース編集室に勇気と信念をもたらし,混迷の 1970 年代に新しい道を模索していた南アフリカの人々に希望の光を届けたのだった。

Part 2 本文和訳

ウッズは,アパルトヘイト政策に抗議を唱え,黒人の権利の拡張を求める「黒人意識運動」に力を貸したことで知られている。この運動はまた,黒人たちに自分の個人的な解放の決定的な第一歩として黒人であることに誇りをもつよう主張してもいた。

しかしながら最初『ディスパッチ』紙はこの運動を認めていなかった。というのもウッズは,この運動もまた別種の人種差別,つまりは黒人の側の白人に対する人種差別であるという印象を持っていたからだ。運動の支持者たちが運動について誤った論説を書いているとウッズを非難しはじめたとき,彼は,国の黒人意識運動を指揮する,反アパルトヘイトの活動家で政府の敵対者であるスティーヴ・ビコに会ってみることに同意した。

この会見は,2人の男の強い友情の始まりとなった。ウッズは黒人意識運動の何たるかをより深く理解するようになり,この人物にすっかり魅せられるようになった。のちに彼はビコについて,「この国の最も重要な政治的指導者にして,光栄にも面識を得るにいたった人の中で最も偉大な人物」と評し,その徳目として,「英知,ユーモア,思いやり,そして知性」を挙げてみせた。

それ以降ウッズは,政府の側からの強烈に否定的な抵抗を受けながらも,ビコを支持し,その活動を応援しつづけた。ビコが『デイリー・ディスパッチ』紙に黒人記者を雇い入れるよう提言すると,ウッズは重役会を説得して,自分のニュース編集室に,男性と女性の2名の黒人を雇った。当時の厳格な人種分離法令の下にあっては,これは控えめに言っても,きわめて問題のある行動であった。

Part 3 本文和訳

ウッズは,ビコとの友情が少なくとも地上的な形では終わりを告げたとき,南アフリカ近代史上もっとも重要なニュースの1つとしてそれを報じた。1977 年,当局によって自宅監禁に置かれた 30 歳のビコが,警察に拘置され,撲殺されたのだ。死の原因が分からないままウッズは一面を黒で縁取り,普通は戦争か和平の報道にとっておかれる特大レターサイズの文字で,「ビコ拘置中に死亡!」と大見出しを打った。この報道は,警察の活動に関する記事はプレトリアの警察本部の認可を得るべきとされる,政府の命令に反することであった。

政府は,ビコがハンガー・ストライキの最中に死亡したと発表した。ウッズとビコの妻とカメラマンは死体安置所に行き,打撲傷だらけのビコの死体を撮影したが,この写真はのちにウッズの本に発表され,当局がビコを殺害したことを証明した。この著書はアパルトヘイト制度の残虐性と不当性を白日のもとにさらけ出し,これまで公式には自殺かハンガー・ストライキによる死亡とされていた他の 20 人の反アパルトヘイト活動家の死も政府によるものであると告発した。

ウッズは一流紙の経営者であるのみならず大家族の家長でもあったため,このような書物を,出版はおろか,そもそも書くだけでも想像を絶して困難なことであった。ビコとの友情が原因で,ウッズも自宅監禁され,執筆を禁止された。自分と自分の家族の健康や安全に対する無数の脅しも受け取った。

Part 4 本文和訳

南アフリカ防衛軍は,彼の娘たちに宛てたTシャツの小包を押収し,それに化学薬品を散布することまでやるようになった。小包が届いて,シャツを着てみた娘たちは,たちどころに化学薬品で火傷を負ったのだった。

この事件のあと,ウッズは著書の原稿を持ってイギリスに脱出した。カトリックの神父になりすまし,480 キロもヒッチハイクをして,偽造したパスポートを使わねばならなかった。家族とはレソト王国で落ち合い,そこから国際連合のパスポートを使って家族としてロンドンへ飛んだのだった。イギリスでは著書も出版され,ウッズはアパルトヘイト廃止のための活動を活発に行った。また国際連合安全保障理事会で演説する最初の民間人として,国民党の残酷きわまりない政策を報告したりした。

1990 年2月,27 年間の拘置の末,ネルソン・マンデラが釈放された。その年の4月,マンデラはロンドンに飛び,ウェンブリー・スタジアムで催されたコンサート「ネルソン・マンデラ:自由な南アフリカのための国際感謝の会」に出席して,長年にわたるアパルトヘイト廃止運動への協力に対しイギリス国民に感謝の言葉を述べた。コンサートの前日ウッズは,アフリカ民族会議の色である黒・緑・金三色のネクタイをマンデラに贈った。マンデラはウッズにお礼の電話をし,コンサートにそのネクタイを締めていくと約束して,その約束をきちんと果たした。

ドナルド・ウッズの業績と生涯は,社会に変革を起こしてゆく善きジャーナリズムの力を十分に証明するものであり,国家における自由の保障のためには報道の自由がいかに大切かをわれわ