CROWN 2 Lesson 6 Ashura – A Statue with Three Faces –

Lesson 6
Ashura ―A Statue with Three Faces―
阿修羅 ― 3つの顔を持つ仏像 ―

(pp.86-95)

 2009年に、仏像の展覧会が、東京で、のちに九州で開催された。165万人を超える人々が訪れて、その展覧会は著しい成功を収めた。最も人気のあった目玉の展示物は3つの顔を持つ仏像、すなわち阿修羅像だった。

Section 1 本文和訳

 奈良公園から、興福寺の五重塔が見える。興福寺の敷地には、興福寺国宝館があり、ここで日本で最も知られている仏像のひとつを見ることができる。つまり阿修羅像だ。

 興福寺は、710年に奈良が都となったときに、藤原氏によって建立された。興福寺は奈良ののひとつだった。

 734年にがその母を追悼するために堂を建て、28の仏像を安置した。その28の仏像の中に、仏陀の守護神である像がある。阿修羅はかつて残虐な戦士であり、絶え間なく帝釈天と戦っていた、という物語がある。後に、覚醒して真実を悟り、悔い改め、そして守護神の一員となった。古い昔から人々は、癒され清められることを願って、八部衆に祈りをささげてきたのだ。

Section 2 本文和訳

 何世紀もの間ずっと、興福寺の建造物や仏像は、火事、戦い、そして自然災害によって破壊されてきた。しかしながら、阿修羅像とほかの八部衆は今日まで生き延びてきた。その残存の理由のひとつは、八部衆の像が軽く、緊急事態となったときに簡単に運ぶことができたことだ。たとえば、阿修羅像は153センチメートルの高さであるが、重さは約15キログラムに過ぎない。

 このように軽い像をどのようにして造るのだろうか。まず最初に木で木組みを作り、その木組みに粘土をつける。そして、それを漆に浸した布で包み、乾燥させる。この過程を何回か繰り返す。次に、粘土と木を取り除くと、軽くて空洞の像が残る。最後に、内側に軽い木の木組みを支えに置いて、漆と混ぜた木の粉を使って細部をつけ加える。この方法は、(乾漆)と呼ばれているが、朝鮮出身の工芸家によってもたらされ、そうした工芸家が阿修羅像とほかの八部衆を制作したと考えられている。

Section 3 本文和訳

 いま目にする阿修羅像は、1,300年近くも生き残り、もともとの彩色は失われ、顔にはひびが入っている。734年に最初に制作された当時、阿修羅像の見た目はどんなだったかを知りたいことだろう。解明することは可能だ。国立奈良博物館に行くだけでよい。そこでもともとの彩色をした阿修羅像の複製を見ることができる。

 その複製は金色の装飾品を身に着けており、古代ギリシャ美術の影響を示している。肩にかかる帯()は古代インドを思い起こさせるかもしれない。赤い肌は古代ペルシャの太陽神とのつながりを示しているように思われる。

 最初の仏像は、1世紀に、ガンダーラ、つまり現在のパキスタンで、古代ギリシャの影響のもとに造られた。その後に続く数世紀において、中国の帝国は、中央アジア、中東、そして西洋と接触を持つようになった。西洋の影響は中国の人々を新しい見方で芸術を見るように導き、そしてその結果、日本の芸術に大きな影響を与えることとなった。

Section 4 本文和訳

 阿修羅像はほかの八部衆とはかなり異なっている。ひとつには、阿修羅像には3つの顔と6本の腕がある。また別のことでは、阿修羅像は帯()を身に着けているが、ほかの像はを身に着けている。しかし、なにより、阿修羅像は人間的な表情を顔に浮かべ、生きているように見える。実のところ、阿修羅はなにか思うところがあるように思われるのだが、それはなんなのだろう。

 原島博は、顔の表情の研究をしているのだが、彼にはひとつの考えがある。原島は阿修羅像の3つの顔の目に注意を向けるように促している。3つの顔を左、そして右、正面というように見ると、目の位置が上がっていることに気づくだろう。原島は、この変化は阿修羅の成熟を示していると語る。左の顔は、怒れる若者として阿修羅を示している。右の顔は苦痛と後悔を表現している。阿修羅の中央の顔は悔恨を示している。

 阿修羅と向かい合って立っていると、阿修羅がなにを伝えようとしているのかと考えている自分に気づくかもしれない。そして、ほかの多くの人々も長年にわたって同じようにしてきたのだ。

 悔い改め、そして清められることを願って祈るために、人々は阿修羅の前で拝んできた。心優しい友人や師のように、この一連のおこないを通じて阿修羅は人々を導いてきた。おそらく、ほぼ1,300年たっても大変多くの人々がこの仏像にひきつけられる理由のひとつは、阿修羅が不確実な時代においてとても必要とされる癒しの感覚を人々に与えるからなのだろう。